92Log,

ご自愛ください。

「社会に出たのなら、頭を使いなさい。頭が使えないのなら、身体を動かしなさい。それも出来ないのなら…」私がブログの立ち上げを決意したたった1つの理由。(+α)

会社を潰し、借金を整理しつつ、フリーランスという名の請負営業マンになった私が、なぜブログを立ち上げようと決意したのか。

 

まず、簡単ではあるが私の概略。

高校生時代は、野球に明け暮れ来る日も来る日も練習に打ち込んでいた。

練習は当然休まず、試合に出ればそこそこの結果も出した。県内では強豪校に位置付けられていた高校。先輩からの「かわいがり」にも耐え、野球に対し真摯に努めいていた。しかし、最後の甲子園予選、いわゆる「最後の夏」。十うん年連続ベスト8以上の我が校は、とある弱小校に惨敗したのだ。(惜敗ではなく、惨敗。負けは、負けだが)しかも1回戦目で。

 

大多数の方は、こんなイメージをお持ちであろう。

夏 高校野球 敗戦高 涙

 

当然、スタンドにいた3年生を含む後輩連中、父兄方は涙を流していたが、ベンチ入りメンバー18人は後輩も含め誰一人として涙を流していなかったのだ。

 

メンバーに事の真相を聞いたわけではないが、私もその一人であった。出てこないのだ。涙が。

これは後に思いつくのだが、恐らく負けたことによる「悔しい」「もっと皆と野球がしたかった」や「これで終わるのが嫌だ」という思いよりも、「あり得ない」という感情が勝っていたのだと思う。

その時私はこうも考えた。「努力しても報われないんだなぁ」と。同時に「どうせ報われないなら遊びまくろう」と。

 

これが大きな間違えであったことに気がつくのは、まだまだ先のことである。

 

残りの高校生活は当然のごとく遊び呆けていた。そもそも勉強が不得手で、この高校に入れたのも野球のおかげであり、すべき事が(野球)なくなった今、いたずらに時間ばかりが過ぎていった。

一応将来のことは考えてはいた。「入れる大学に入学して遊びまくろう」と。そこまでしか考えは至っていなかった。浅はかである。ある意味一刻者である。

 

入試は面接試験のみで、今でも忘れないが、本大学では野球に力を入れている。是非入部して底上げをしてください。という言葉に対し私は「いや、遊びまくる予定なんで入部はしません」と、なんてバカげたこと返答していた。

 

結果は、晴れて合格。まぁ田舎の新設大学なんてそんなもんだろう。

 

春からの学生時代に胸を躍らせていた2月ころ、父親が蒸発。小学生・中学生・高校生(私)の子供を残して。

「お、おぅ」に近い言葉しか出てこなかったが、「遊びまくりたい」という私の思いはとても強かったのであろう、そこから早かった。母子家庭での奨学金のもらい方など、役所に行き勉強し、母親には、「奨学金とアルバイトでなんとかするから、援助はいらん」と伝え3月の末に、友人宅で借りた軽トラックに荷物を押し込み引っ越し完了。

 

そこからはアルバイトに明け暮れる日々。ブログを立ち上げる際、たくさんの方の記事を読ませてもらって、若いのによくもまぁこんな事考えられるなぁと感心しっぱなしであったが、当時の私は(恐らく今もだが)そのようなことは全く思いもつかなかった。

 

とにかく、体を動かし働いた。時給平均750円。3つ掛け持ちした。空いた日は現場作業にも行った。

バイトが終わると友人宅に行き酒盛り。朝になるとまたバイト。昼に少し時間が空き、たまには大学に行ってみるかと顔を出しでも、学食でダラダラとダベり。その際に講義の代筆も依頼。あぁもう時間だと急いでバイトへ向かう。

 

まぁそれが楽しかったのであろう。アルバイトと奨学金でお金もそこそこあるし、身体はしんどいが、若さがある。車もある(当時は型落ちの国産スポーツカーに乗っていた)。腹心の友もいる。彼女も出来た。まぁなんて充実。キラキラ学生生活。

単位は厳しかったが、バイト・学業とをこなし、就活は1社目で、実家から車で5分の地元ではそこそこの優良企業(後にブラック企業だと知ることになる)に内定をもらい、4回生後期にピッタリと単位を取得し卒業。

よく過労死しなかったなと自画自賛に値するレベルではあった。

ただ、本当に当時の私に言いたいことは、貴重な学生生活を時給750円でよく切り売りしたな。と。それも経験の一つだが、時間はもう戻ってこないよ。と。

 

 

ここからも早かった。前述もしたが、社会人になり、そこそこ仕事をしながら、ダラダラと飲み呆けていた頃、転職話をもらい、すったもんだがありながら転職。

 

ctrl-x.hatenablog.com

↑一部転職話書いてあります。

 

転職先半年で休眠。(これは別の機会で)

残された、社員さん・パートさん達の受け皿になるべく株式会社立ち上げ。資金繰りが出来無い+問題が起こり(これも別の機会)約2年で倒産。

それから約1年程フリーランスという名の請負営業マンをしている私。

 

やればやっただけ、やらなきゃそれまでの生活。誰もケツを叩いてくれない。でも、それでも何かはじめいたいと感じ始めていた。

といっても、やりたいことはたくさんある。やってみたいこともたくさんある。絵に描いた餅状態だが。

なにか手っ取り早く始められると思ったのが、ブログであった。これも安易であるが。

なにかこの私の、みすぼらしい経験を誰かに伝え、反面教師として役に立てればと思い立ち上げたのだ。

 

 

「社会に出たのなら、頭を使いなさい。頭が使えないのなら、身体を動かしなさい。それも出来ないのなら、この世から去りなさい。」

 

 

誰が言ったのかは解らないが、この言葉がずっと心に残っている言葉の一つである。

まだ、ハンチクにも満たない私の言葉が、誰かに伝われば…

 

 

これがブログの立ち上げを決意したたった1つの理由である。

 

 

+α…少しでも小遣い稼げればとの思いもある。

戦うこと。逃げること。

晩婚化が進む今日日、わたしの友人のおおよそ8割は20代で所帯を持った。

わたしの弟(次男)も例外ではない。

いわゆる、「Instagram」「Facebook」といったSNSは、披露宴挙げました、とっても幸せです!・子供が生まれました!!・家族で〇〇に行きました!!!!・新築建てました!!!!で溢れかえっている。幸せそうで何よりだなぁと生温い目で見ている。決して嫉妬なんかではない。と、思いたい。

 

 

 

今から7年ほど前から6年間に渡り、大げさに言えば毎月のように結婚式・披露宴に、友人に呼んでいただいた。多いときは、ひと月に3組なんてケースもあった。

気持ちはありがたいが、「祝儀貧乏」になっていた。

本当にどん詰まり、「恥ずかしい話だが、金策ができず行かれない」と、友人に相談したら、「そんなもん(祝儀)いらないから、お前は絶対に来いよ」といってくれた友人もいた。何人も。

 

当時は「ブラック企業戦士」として、新卒入社で会社に所属していたが、売上を上げども上げども所得は横ばい、それどころか難癖つけられ減給。かといって自制することもなく毎晩のように飲み歩き、貯金は増えないが借金は増えていく。借金を借金で返すなどしていた。「血を血で洗ってるみたいでカッコいいな、俺」そんなふうにも思っていた。他言はできないが。

なんとかしなきゃなーと思っても、毎日が徒然と流れていく。危機感がまるでない。

 

 

 

そんな中、転機が訪れたのが転職話だ。横文字で言えば「ヘッドハンティング」。

今考えれば、終わりの始まり。(多分後述するかも)

 

 

 

9月にその話を頂いた。曲がりなりにも筋は通そうと思い、当時勤めていた会社に「退職願」を提出。上司にその場で破られる。「退職願いを破るなんて、ドラマでしか見たことないなぁ」など呑気に眺めていた。

しかし、破られてしまったら辞められないので、提出→破られる。を繰り返していた。埒が明かず、こうなったらと、社長に直接出しに行く→破られる。

(後に知ることになるが、「労働基準監督署」なるところに行けば、すんなり終わったのに…無知は罪である)

あれ?会社辞められなくない?と思い、先輩・同期・後輩がどのようにして辞められたかを分析する。

 

出た答えは「バックレ」逃げること。

 

そのようなことはしたくない。根気よく毎日にように「退職願」を出し続けた。

そうすれば私の気持ちが通じるものだと思っていたが、現実は甘くない。

そうこうしている内に、転職先も難色を示す。

「11月から来てもらわなきゃ、この話はなかったことに」と。

もう10月も半ば、新しい住まいも契約済み。約1ヶ月も退職願を破られ続けて来た私のメンタルは弱っていた。

この会社を辞め、新天地へ行きたい。だけど辞められない。辞められなければ、新天地へ行けかれない。

弱った。10月最後の営業日、基本的に完全週休2日制。土日休みなのに何がブラック企業だとお思いかとは思うがそれは割愛。

金曜日に、「退職願」を提出する。結果は、破られる。

 

無い頭を振り絞り、土日でも営業している郵便局に走り、「退職届」「健康保険証」を簡易書留で送る。その晩に必要最低限の荷物を車に押し込み、夜逃げ同然で新天地へ。

実家住まいだった私が、新天地と選んだのは車で約3時間ほどの関東地方。

そもそも、新卒で入社した会社を選んだ理由が、「実家から近いから」であった。浅はかすぎる。

まさかとは思ったが、次の営業日(月曜日)に、上司と常務が家庭訪問。

家族には本当に迷惑をかけた。今後もかけたが。

 

 

 

結局私の選んだ行動は「逃げること」だった。

あまり後悔はしたことがない私が、「後悔」したことの一つである。

逃げ癖がついてしまったことが後悔の要因である。

 

 

ことわざで、「逃げるが勝ち」という言葉があるように、当然、逃げることも時には必要ではある。ましては「逃げ場所」なんて最たるものである。私にとっては。

しかし、逃げてはいけない場面というのも存在する。

私は、逃げてはいけない場面で、逃げてしまったのだ。

 

 

 

どうして、このようなことを書くに至ったかというと、何年か前にとある記事で、「逃げても良い」という書き出しから、「自然界では、逃げるという行為は生き延びるための一番重要なこと」「どんどん逃げてください」「逃げることは、生き物にとって本能です」と、なるほどなぁ・確かになぁと読んでいた。

しかし、疑問に思ったこと、それは、あくまで自然界での話であって、自分が生きている世界は人間界であると。カタギの世界で命まではとられないしなぁと。そりゃ、命狙われたら一目散で逃げますよと。

 

 

現実から逃げるためには、逃避行するか、自殺くらいしか道はないが、今私が死んでも1円の価値もない。あったとしても、数万円が関の山。保険解約しないでおけばなぁとも思ったこともある。

 

 

「人間界」で生きていく以上、ついて回るのがお金。呼吸しているだけで金がかかる現代をどう生きていくかは、一番は「逃げないこと」だろうと。

時には「戦う」ことも重要じゃないかと。

筋を通して生きていれば、戦っても周りが助けてくれるし、周りがいないよなんて人でも、行政・司法が助けてくれる。

 

企業戦士だった頃、よく上司に言われた言葉を時折思い出す。

「決して逃げるな。かわせ。逃げるとかわすは違う。かわした後に解決策を見い出せ。戦え」と

あれ?・・・退職願破るってことは逃げていることでは?

 

 

 

 

あくまでも私は、いわゆる健康体で、フリーではあるが、一介の営業マンであり、持っている免許も「運転免許証」くらいだ。

甘い考えかもしれないが、私はそうして生きていきたい。大丈夫。大丈夫。

 

漠然とした生活に終止符を。

私は、営業をしている。

と、いっても会社に属しているわけではなく、完全にソロ活動。

いわゆるフリーランス個人事業主・自由業・・・といえば聞こえが良いが、完全歩合制の請負で、1件契約が取れれば、契約金の何%といった具合で、売上により所得が変わってくる。

 

相場としては、1件=50,000円~ 大口であれば200,000円~といったところだろうか。うまく行けば、1日で大口2件決まるなんてこともある。

 

今週は売上0件。まぁまだ火曜だし。

ちなみに先週も0件。

 

1件でも大口契約が決まれば、少しは息ができるのだが、現状は正直笑えない。笑えないというか、まじでヤバい。ヤバいって言葉以外出てこない。

 

日本全国に「出張」という形で、日本本土であれば、青森から山口・愛媛くらいは「自家用車」で営業に出るのだが、経費がなさすぎて「車中泊」なんてこともザラだ。

逆にうまく行っていれば、日本各地の「おいしいもの」が食せるし、きれいなおねーちゃんがいる「ところ」にも行ける。

 

今は、信越地方で海を眺めているが、なんせ暑い。暑すぎる。そのせいで、やる気が一向に湧かない。典型的な「ダメなオトナ」である。

このままではダメだと、一念発起しようと思うが、別の言い訳が浮かんでくる。

 

 

「昨日抜歯したところが痛いし血が止まらんし

 

 

本当にこのままではダメだ。

 

と、ふと思いついたのが、ここのブログサイト。

何故かは、割愛するが(もしこの思いつきが続くようであれば、後述するかも)恐らくこの書いていることについても、自分への言い訳であろう。

(文章打ち込んでるし サボってるわけじゃないし)云々

 

 

 

 

自分への備忘録・言い訳・戒め・反省 あるいは、「こんな人間でも楽しく生きてるよ」と他人へのエールとなればと、筆を執った次第である。

 

コツコツと更新しようと考えているので、この思いつきが続けばなと思っている。

好きな言葉が、コツコツとだからとは言わないが。